沿革

HISTORY

メッセ、心の歴史

平無一文で起業し、多くの苦難を乗り越えてきた。いろんな苦難を乗り越えてきた。どんな事にもあきらめず、改善改革しながら成長してきた。会社の沿革と言えるほど、立派なものではありませんが、不器用ながらに一生懸命歩んできた歴史、当時のエピソードも踏まえて紹介したいと思います。

大阪のやんちゃ少年、
学びの道へ

社長は大阪生まれ、大阪育ち。近所の悪ガキとケンカばかりしているやんちゃな男の子だった。このままだと良くないと思った姉が、学区外の進学校に越境入学させてくれた。勉強やスポーツに意欲的な同級生たちの存在に、目から鱗。そして、学問の面白さと出会うことになる。高校受験のときに助けてくれたのは兄。ワンランク下の学校をすすめる担任に対して、「北野高校にチャレンジさせてください」と説得してくれたのだ。君夫は関西屈指の名門進学校である北野高校に無事合格。卒業後は上京し、早稲田大学の法学部で学ぶことになる。姉と兄。誰よりも自分を大切に思ってくれた家族が自分の未来への道を開いてくれたこと。家族なくして、今の自分はいない。半世紀以上も前のエピソードが、メッセの大家族主義の原点。

家族を守るために
事業をはじめた

アルバイトをいくつもかけ持ちでやりながら過ごした大学を卒業した後、一本気な性格で、心のままに生きていた。結婚し子供の成⻑と共に、家族を守るために夫婦で中古車販売として起業した。一生懸命やれば成功できる。信念を持って朝から晩まで汗水たらして働き、世界でいちばん小さな中古車屋だと胸を張った。しかし、中古車販売に対する知識と経験の不足により、経営の根本が揺らぎ、どん底まで落ちたが這い上がってきた。夢と希望は失わなかったからだ。

10年間続けた
自動車販売業の廃業

当時、中古車センターの憧れの地、新小岩に拠点を確保する為に当該店舗に店主を訪ね数十回訪問し、こちらの熱意を伝え、その地を見事獲得した。その後、バブルが始まり、買った土地の値上がりのおかげで10年間自動車販売業を維持出来た。その間、ローバージャパンの特約販売代理店になり、ミニクーパー、ローバースターリングなどの多数の外車販売をしたが、特にローバーは夏の高速道路上でエンジントラブルなどを起こし、修理工場を持っていなかった為、保証期間の修理費用が増え、売れば売るほど赤字が膨らんでいく羽目におちいった。中古車の販売も注文のある車を買うのではなく、オークションで沢山の見込み買いをして展示場いっぱいに並べて売ろうとしたが、売れ筋ではなく死筋商品の山を作った。全部処分して大赤字の山を作った。経営はがけっぷち。これらすべて社長の責任と捉え、苦渋の決断で廃業を決意。

経営を学ぶ、
優れた考え方を学ぶ

経営を立て直すためには何が必要なのかを学ぶために車の勉強だけでは足りないと、経営者が集う勉強会にもこまめに足を運び、真摯に経営を学ぶようになった。そこで行きついた結論は業種の転換しかない。これに賭けよう。ちょうどそのころ外食チェーンで業績を上げているサイゼリヤの正垣会長等に巡り合い数々の助言と示唆を受けた。「パチンコ業界」国民大衆から愛され支持されている業種で暴対法が施工され一層安心安全な産業となったことを契機に現金商売でもあるパチンコの業態に参入することにした。

パチンコ素人からのスタート

パチンコとは全く無縁だったがパチンコ店を経営する諸先輩のアドバイスを受け自動車販売業を閉店した新小岩の地に1号店を構えた。開店に駐車場の確保が絶対必要であると考えて隣のマンションの13世帯にご納得いただき買い上げさせてもらう手段を取った。夫婦で交渉を始めたが案の定、難行苦行で心が折れそうになる日の連続であった。だが、あきらめず交渉を続け1年で買い上げることに成功した。これは開発プロも驚く快挙であった。土壇場で駐車場付きのパチンコ店として、オープンに間に合わせることが出来た。グランドオープンは大盛況で成功したが、小規模だった為に借り入れ過多により、初めから経営は苦しかった。その状況を打開する為に、借り入れの少ない賃貸での2号店の開店を目指してしゃにむに動き回り、1年半をかけ奥戸店のグランドオープンを大成功させた。

北関東への挑戦

新小岩店・奥戸店・そして扇店の開店により都内に3店舗を構えた頃、経営がやっと安定した。今後の立地戦略を地震対策と初期投資の安価な東京からもっとも近い北関東に拠点を定めて、北関東エリア1号店の太田店を確保する事ができた。その後、本庄、佐野、桐生、高崎、羽生、富岡、足利、江戸崎へと快進撃を行った。8店舗の北関東エリアの開発は「あきらめない」「果敢に立ち向かう姿勢」「懲りずに学ぶ」この3つのことを大事にし、行動した結果2008年には売り上げは500億円を突破していた。バブルが弾け経営状況が悪化し、地方が衰退し ていく頃、北関東をスクラップし、東京に立地戦略を修正した。2020年は、13店舗売り上げ600億と成長している。

家族主義と実力主義

2004年に宮本茂(現専務)がソニーを退社後入社した。2005年には店舗数も増え、新卒採用が始まった。新入社員が入社したのを契機に福利厚生や教育の充実にも力を入れ始めた。社長は社員とのコミュニケーションを大事にする、いわゆる家族主義を掲げて経営をしていた。だが時代の流れの中で実力主義も組み込まないと時代に飲み込まれてしまうと危機感を抱くようになり、教育の重要性を重視し、7つの習慣・ペガサスセミナーでの学び、感謝接遇清掃の教育、考え方が大事だという事に気づき「盛和塾」に入塾し、「京セラフィロソフィー」を朝礼で輪読。組織強化の為の研修などをリンクアンドモチベーションから学び、メッセフィロソフィーが誕生した。

コロナ禍での戦い

2020年、新型コロナウイルスが世界を襲った。いつまで続くのか、終わりの見えない状況の中で政府より営業の「自粛要請」があり全店休業をするのかしないのかの決断を余儀なくされた。取締役会で議論がなされている最中、専務が「何があっても従業員の生活は守りましょう!」と発言した。思いは役員一同同じだった。約2カ月全店舗休業し、アルバイト含む全従業員の生活は守った。緊急事態宣言が解除され、店舗再開。お客様が戻るまで時間がかかると想定していたが、1カ月で売り上げは回復。新型コロナ対策を率先している会社としてメディアの取材を受けたりもしたが、自分たちが何よりも嬉しかった事は、店舗でお客さまから沢山の励ましの声を頂いた事、安心して来店出来るとのお声を頂いたことです。全従業員が不安な心を癒し、笑顔でお迎えする接客に一人一人が真摯に向き合い、情熱を注ぎ私たちとお客さまが笑顔で過ごせる空間、居場所を提供していることに胸いっぱいの幸せをメッセ社員一同が実感しました。

新しい居場所の創造

これまでの延長線上の仕事を繰り返すだけでは、未来は広がらない。新しい価値創造をおこなうからこそ、企業は成長することができる。キーワードは「居場所」。2021年12月に西荻窪駅前に誕生したのは、ベントハウススタイルの本格的フィンランド式サウナ「ROOFTOP」。これまでの既存事業とはまったく異なる事業に挑戦。他企業様とのコラボ計画や、各種メディアで紹介されるようになったりと注目を集めた。おなじく2021年には、コワーキングカフェ「Life Work Cafe」続けて2022年に「LifeWork Room」もグランドオープン。リモートワークの浸透など働き方・時間の過ごし方の変化に合わせて、一人ひとりにベストな居場所を提案できるような環境・サービス設計をおこなった。短期間で新規事業を仕掛けることができた秘訣は組織戦略にある。社歴の長いベテラン社員と入社3年未満の若手スタッフがチームを組んで、迅速にプロジェクト推進をおこなう体制がうまく回るように。若手の活躍は、採用活動にも影響しており、会社全体にさらなる好循環を生み出している。2022年には、三鷹駅前地区の再開発プロジェクトにも参加。地域全体の発展も考えながら、世界にまだない新たな居場所創造に挑戦している。

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